大掾氏系図  (不明な箇所もあり参考系図とお考え下さい)                       

 平

 

 
平高望(たかもち) 桓武天皇の血を引く(曽孫?)とされ、889年に宇多天皇の命により平朝臣の姓を賜わって、上総介として関東に下向した。国司の任期が終わっても都に帰らず、上総国に土着し、その後常陸国にも勢力を広げた。地元豪族との関係を深め、関東の平氏の基となった。(839年?-911年?)
国香(良望) 高望の長男国香は、弟たちとともに父の跡を継ぎ、自らは常陸大掾・鎮守府将軍に就き、筑波郡、真壁郡、新治郡一帯の統治を任され、本拠として常陸国石田(明野)に館を構えた。自ら積極的に開墾し、その領地を広げた。しかし甥の平将門との戦いに敗れ藤代川(現、龍ケ崎市)に没した(935年2月)。しかしその後国香の一族は平清盛に代表される「平家」として全国で隆盛を極める。(?-935年)
貞盛 父国香の死を京にいて知った貞盛は、将門追討のため下向するも失敗し、後に下野押領使藤原秀郷(ひでさと)を味方にひきいれ、940年に将門が大部分の兵を解散させた時を狙って約4000人の兵をもって合戦を挑んだ(承平・天慶の乱)平将門は味方の8000人余りの軍勢が集まらず、400人程の戦力で戦ったが、ついに馬上で矢を受けて倒れた。鎮守府将軍・陸奥守を歴任、常陸に多くの所領を得る。

多気

維幹(維基)(コレモト) 貞盛の甥であり、養子として継承する(一説には貞盛の子とも)。筑波郡水守(みもり)(当時の記録には水漏と記載あり)に住み、後に(990年頃)多気に移る(つくば市の多気城を築いた)。維幹は常陸大掾職に任ぜられ、ここより常陸大掾平氏の世襲が始まる。「宇治拾遺物語」には維幹が京都に訴訟で上ったとき、高階成順の娘を見初め、妻にして常陸に帰った。二女をもうけたが、やがて歳月を経て妻は死んだ。その後維幹の妻の妹が夫の常陸介にしたがって常陸にやってきた。まもなく任期が終わって都に帰るとき、維幹は二女を遣わして餞別を贈らせた。二人の娘はそれぞれ逸物の良馬10疋ずつと、皮子(籠)を負った馬100疋ずつをおくったので、常陸介は維幹の娘たちの富裕におどろいた、という話が記されている。(石岡市史より)
為幹(タメモト) 常陸大掾。寛仁4年(1020年)ころ、維幹・為幹父子の勢力は強大で、常陸介を圧倒するほどであった。当時、為幹は父と同じく従五位下に叙されており、富力と権力をもって粗暴な振る舞いが多かった。寛仁4年7月。紫式部の弟の常陸介藤原惟通(これみち)は常陸国府で死んだ。この時、為幹が惟通の妻子を奪い取り、強姦するという事件がおこった。惟通の母が朝廷に訴えたが、為幹は権力に任せて病気を理由に出頭しなかった。日々莫大な献物を貴族達に贈っていたことが分かっている。結果としては為幹は1年間京都に留められ、1021年に罪を許されている。
繁幹(重幹) 上総介。重幹は為幹の子である。源義家(八幡太郎)の弟の新羅三郎義光が常陸介在任中に重幹と婚姻関係を結んでいる。嫡男の義業に重幹の子清幹の女をめとらせ、生まれた昌義が佐竹氏の祖となっている。1106年(嘉承元)源義国と合戦。
致幹(ムネモト) 多気権守。後三年の役に参加。致幹の兄弟は、水戸および結城・真壁方面に進出した。清幹は吉田次郎といい、その3子は吉田太郎盛幹・行方次郎忠幹・鹿島三郎成幹で、それぞれ吉田・行方・鹿島氏の祖となった。「奥州後三年記」には、源頼家が安倍貞任を討つために陸奥国に下ったとき、多気権守宗基(致幹)の娘と旅の仮屋で逢い女子を生んだ。その子が美女で清原真衡(さねひら)は、この女を迎えて養子の成衡の妻にしたと記されている。
直幹 常陸大掾。直幹の四男長幹は真壁に築城して真壁氏となった。
義幹 常陸大掾。1193年大掾職の座を狙っていた守護の八田(小田)知家が策謀を巡らし、源頼朝へ曽我兄弟の仇討ち事件の混乱につけ入り、「義幹謀叛の噂あり」と讒言をした。そのため義幹は大掾職を解かれ失脚し、多気氏は滅びた。しかし次男茂幹は芹沢氏(新撰組の芹沢鴨はこの一族)の祖となった。
吉田(馬場) 資幹(助幹)(スケモト) 1193年八田氏の讒言で失脚となった多気氏に代わって同族の吉田氏の資幹が源頼朝より大掾職に任ぜられた。本拠を水戸に移して水戸城を構築した(築城年ははっきりしていないが建久年間(1190年-1198年)といわれる)。またこれより馬場氏と名乗った。1214年鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、府中に居館を構えた。この時石岡城が築かれたという。詮国が府中城を旧国衙に築くまでは府中における大掾氏の居城となった。
朝幹 大掾職を小田知重が競望し、鎌倉幕府に働きかけた。このため大掾職が停止となった。鎌倉期以来の常陸守護の系譜を引く小田氏との対立、抗争は大掾氏と小田氏にとって中世を通じる宿縁ともなった
教幹  
光幹  
時幹  
盛幹 1333年鎌倉幕府滅亡し、南北朝時代となり、盛幹は1335年中先代の乱では北条時行についたが、その後室町幕府を開く足利尊氏に謝罪のため、多気種幹の遺子竜太を人質として差し出す。
高幹 乱を平定するために東下した足利尊氏の軍と合戦におよんだ。北条時行軍は大敗して潰滅、鎌倉に入った尊氏に高幹は降伏した。その後、尊氏は後醍醐天皇の召還命令を無視して鎌倉に居すわったため、天皇は尊氏謀叛として新田義貞を大将とする討伐軍を発した。ここで楠木正成の弟正家が常陸国瓜連城に入ると、高幹は小田・那珂氏とともにこれに加担した。しかし瓜連城は落城し、北朝方の高師冬の軍事拠点となった。この瓜連城落城を契機に南朝方那珂氏は滅亡に瀕し、終始尊氏方として活躍した佐竹氏の常陸北部支配が決定的なものとなった。佐竹氏らの武家方に府中を攻められるも、小田治久の助けを得て国府原で佐竹軍と激突、佐竹勢を打ち破った。しかし小田氏との永年の確執は変わらず、高幹は1338年に武家方(北朝)に転向し、小田氏・志筑氏を攻めることとなった。以後、府中一帯は北朝勢力の一拠点として、内乱期を通じて比較的穏やかな日々が続いた。1341年小田城の攻撃に際して、大掾高幹は志筑城攻めを命じられている。大掾職を嫡男文幹(詮国)に譲った高幹は、剃髪すると浄永と号して水戸に隠居した。
詮国(文幹) 文幹は足利将軍義詮に従い功をたて、詮の一字を賜り詮国と改め、正平年中(1346〜51)に府中城を築き兵勢を盛んにして争乱に備えた。それまでの居城である石岡城も外城(とじょう)として残った。北朝方に属した大掾高幹・詮国父子の時代に大掾氏は勢力を拡大した。大掾氏の存在は、南朝方の小田・白河結城氏らの行動を牽制し、同氏の政治的地位の向上や府中の非戦場化を実現した。さらに高幹・詮国・満幹の名は足利将軍からの一字拝領と思われ、足利氏との強固な関係を築いていたことがうかがわれる。
満幹 1416年に上杉禅秀の乱(室町(足利)幕府に対しておこした反乱)で上杉方につくが、敗れ、大掾氏も水戸城(馬場城)周辺の所領を没収され、江戸道房に与えられた。しかし満幹は水戸城の明け渡しを拒否し、占拠を続けるが、1426年に「青屋祭」を執行するため、一族をあげて府中に赴いた。ところが、これを好機とした江戸通房が大掾氏の居館である水戸館を奪取した。1429年12月に満幹父子は鎌倉で鎌倉公方持氏の命により殺害された
(持幹) 持幹は清幹の父であるが、大掾氏を継いだとの説もある。
清幹 満幹父子が殺され、満幹の弟秀幹のそ孫清幹(満幹の孫との説もある)が大掾氏を継承した。
高幹 法名亀山
常幹 法名涼峯浄清
慶幹 水戸地方を拠点とした江戸氏は盛んに勢力を南に拡大してきており、これに対して大掾氏は小田・真壁・笠間の諸氏ととも江戸氏と対立した。しかし1546年、小高直幹の誘いにのった小田政治が大掾慶幹を攻撃してきたが、慶幹は長者原において小田氏を撃退し、さらに進んで小高城を奪取した。(1551年没)
貞国 1551年慶幹が没し、子の貞国が大掾氏を継いだ。この頃には大掾氏、小田氏、江戸氏の三つ巴の対立が激化し、特に小田氏の勢力が強まった。1563年貞国は三村合戦で小田氏治に破れ、その後佐竹氏と連携し小田氏攻略に備えたが、大掾氏と園部氏が確執を起こしたとき江戸・佐竹両氏が園部氏(小川)を支援したため、小田氏への守りとして築城した三村城も城主の弟常春は小田氏に攻められ1573年に落城し、25歳の短い運命を閉じた。しかし小田氏は佐竹方に攻められ1574年に土浦城が陥落した。この時、大掾氏は東に薗部、北に江戸・佐竹、南に小田に囲まれてしまった。1577年に貞国は戦死した。
清幹(浄幹)(キヨモト) 貞国の死後5歳の清幹が家督を継いだ。後北条氏の勢力が北関東にも及んでくると、大掾清幹は上杉謙信と結び、佐竹氏らと協力して反北条活動をとる。しかし、その間も江戸重通は大掾氏を攻め続け、当初中立の立場をとっていた佐竹氏も江戸重通に協力する。清幹は府中城の詰め城を殆ど落とされ、大掾氏惣領家の滅亡は時間の問題となった。これに対抗するため清幹は後北条氏と結んだと思われる。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原の役が発生する。清幹をはじめとする大掾氏一族は後北条氏側に立ち、参陣をしなかった。結果、常陸は参陣をした佐竹義重に与えられた。義重は江戸城を攻めて江戸重通を追い出し、その勢いで府中城も攻め立てた。激戦の末、府中城は落城し、大掾清幹は自害した。この時18歳であった清幹はそのほとんどが戦闘に明け暮れる日々を送っており、最後の無念さが怨念として残っているようである。これにより大掾本宗家は滅亡した。次いで翌年2月、義重は三十三館主と呼ばれた鹿島・行方郡の大掾氏枝族を太田城に招いた後に皆殺しにした。そして鹿島、行方郡に軍を進め、大掾氏一族の殆どは滅亡した。

大掾平氏は将門の乱(天慶の乱)以降、平貞盛の子孫によって繁栄し、勢力を常陸一円におよんだ。資幹(スケトモ)の祖父清幹は水戸明神のあった現水戸一校野球場付近に館を構えた。この地が吉田神社の一部であったため、吉田館とよんでいたものと思われる。群雄割拠の時代となり、平城は戦闘に不向きとなり、資幹は城を山上に移して城郭としての形が整った。これが水戸城(馬場城)の始まりである。資幹は築城した場所が水戸明神の馬場であったことにより馬場小次郎資幹と称した。ただし、資幹の築城した城は現在よりはかなり小さな城であった。資幹は将軍源頼朝の信頼も厚く、大掾職での一族繁栄の基礎を作った中心人物であるが、実際の政務は府中(石岡)に館を構えて行なっていた。この時の府中の館は石岡城(後の府中城の外城)となったところであった。この大掾職は資幹から詮国まで230年ほど代々続いて世襲され、いつしか大掾が氏となった。この間は府中と水戸の両方で政務を執っていたものと思われる。高幹が隠居して水戸に住むと、職を継いだ文幹(後の詮国)は府中城を国衙のあった地(現府中小学校敷地)に築いたのである。しかしこの頃はまだ水戸城に居住することが多く府中と水戸の2箇所で政務をとっていた。満幹の代に足利持氏に反乱をおこした上杉方につき敗れ、持氏より水戸城を江戸対馬守藤原通房に引渡しを命じられたが、これを無視してそのまま支配を続けたが、江戸通房は旧来通り交わって、満幹を安心させ、応永33年6月21日に青屋祭のために府中へ出発した満幹の留守を狙って水戸城を奪ってしまったのである。満幹は水戸を奪われただけでなく、足利持氏に詰め腹をきらされてしまった。水戸を奪われた後は大掾氏は府中城がその中心となった。府中城は県下唯一の都城式形態の備えを持つ名城で、謫居童問(てききょどうもん)(注1)によると、陸奥の多賀城、筑前の怡土(たいど)城と並んで日本の三名城と言われるほどの城で、国府(石岡)の町全体が城の形体をなした堅城といわれた。水戸を失っても七つの出城を所属し一大勢力を誇っていたが、最後はまことに哀れであり、府中の町も戦火で焼け落ち、多くの歴史的な記録も失われ、多くが謎に包まれたままとなっている。(注1:謫居童問・・・江戸時代初期の儒学者・兵学者である山鹿素行の播州赤穂に謫居中道徳及び武士道に関して記述した書。大石内蔵助などの道徳教育などの教育内容となったと伝えられる)

(参考文献:「茨城の城館」ニ サンケイ新聞社編 筑波書林ふるさと文庫)

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