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▼日の丸の起源▼その3-甲斐武田家伝来の家宝は日の丸?


御旗・楯無も御照覧あれ 

 戦国大名として有名な武田信玄。この武田家では、当主が「御旗・楯無も御照覧あれ」と言うと、それまで反対意見などがあっても、この家宝の前で誓ったことは、全員が死を持っても守らなければならず、それ以上の議論は止めなければならなかったのです。

「御旗・楯無」は共に武田家の家宝であり、絶対に従わなくてはならない最も神聖なものでありました。御旗(みはた)というのは新羅三郎義光の父頼義が後冷泉天皇(1045-1068年、第70代)から下賜された「日の丸御旗」であり、源氏の直系を示す旗であり、「楯無(たてなし)」というのは義光が使っていた鎧(楯が無くても槍や刀を通さない丈夫な鎧)」のことであり、「この鎧に勝る楯無し」がその語源です。

御旗(みはた):山梨県塩山市 雲峰寺所 蔵

楯無(たてなし):山梨県塩山市 菅田天神社 蔵

 
武田信玄の子(四男)武田勝頼と織田信長が戦った「長篠の戦」では、信長が3,000丁の鉄砲で、当時無敵と言われた武田の騎馬隊を破ったのですが、実は、この戦いの前夜、武田軍側は「引くべきか、攻めるべきか」で議論が紛糾した。長老達は「引くべき」と主張し、若手は「攻めるべき」と主張し意見が分かれまとまらなかったのです。
このため、勝頼が「御旗・楯無も御照覧あれ、明日は戦いで勝負をつけよう!」というと、その瞬間、その場にいたすべての人は議論を止め、戦が始まったと伝えらています。その結果は、皆さんがよくご存知のように、武田軍は信長の三段構えの鉄砲隊の繰り出す砲弾の前に無謀な突撃を繰り返したのです。途中から体制を立て直し、作戦を変えることも出来たでしょうに、勝てぬ戦と知りながらも引くことは許されなかったのでしょう。この結果天下無敵と言われた武田の騎馬隊もほぼ全滅してしまったのです。この時武田軍が勝っていればそれから先の歴史は大きく変わっていたのは確かだと思います。

 この「御旗・楯無も御照覧あれ」の言葉は現代でも、会議が長くなり、たくさんの意見が出すぎてしまって、結論が出なくなった時などに、誰かが決断する必要がある時などに、時々例として取り上げられておりますが、決断を下した結果がみじめな結果に終わることもあるので、間違ったと分かった時には軌道修正することも必要ですね。

甲斐武田家は源氏の直系 

武田家は清和天皇(850-880年)に始まる清和源氏の血を引く、名門の家です。

武田家は清和天皇から数えて4代目満仲(摂津源氏)の三男頼信を祖とする河内源氏の流れです。頼信の子頼義には三人の子がありその長男は武門の鏡といわれた八幡太郎義家であり、この子孫が鎌倉幕府を開いた源頼朝です。武田家の祖は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)といわれており、寛徳二年(1045)源頼義を父に、上野介平直方の女を母として生まれ、近江国(滋賀県)円城寺(三井寺)の新羅明神で元服し、新羅三郎を名乗っています。知謀に富み、弓術をよくし、笙(しょう)の名手だったと伝えられ、歴史上重要な人物です。三郎の名の通り三男で、長男八幡太郎義家に比べ50歳を過ぎてから頭角を現します。また次兄義綱は「賀茂次郎」と呼ばれています。

前九年・後三年の奥州十二年合戦によって東国源氏を武門の家として確立した新羅三郎義光は上の兄二人に隠れてか、官途につくのが遅く、左兵衛尉になった時すでに四十代に手のとどく歳になっていました。そして常陸介(ひたちのすけ)の受領職についたのは五十代の後半であり、義光の本領が発揮されたのは、それ以後のことです。

(続く)