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▼日の丸の起源▼その6-日の丸の扇(那須与一)


那須与一

 日の丸と源平合戦の話の続きを聞いてください。それは有名な弓の達人那須与一のお話しです。

 日の丸の扇をかざして弁慶を家来にした牛若丸(源義経)は、元暦2年(1185)2月、四国屋島に陣をしいていた平家をわずか150騎の軍勢で背後から攻めたてました。慌てた平家は船で海に逃れ海辺の源氏と対峙することになりました。戦は一進一退が続き、やがて夕暮れに近づきます。この時平家方から立派に飾った一艘の小舟が源氏の陣に近づいて来ました。見ると美しく着飾った女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っています。「この扇を弓で射落としてみよ」という挑戦でした。
 義経は、弓の名手那須与一を呼び寄せ「あの扇を射て」と命じました。与一は何度も辞退しましたが、聞き入れられず意を決して馬を海中に乗り入れました。このとき与一は弱冠20歳。「平家物語」では、このくだりをおおよそ次のように書いています。

 時は2月18日、午後6時頃のことだった。折から北風が激しく吹き荒れ、岸を打つ波も高かった。舟は揺り上げられ揺り戻されているので、扇は少しも静止していない。沖には平氏が一面に船を並べ、陸では源氏がくつわを並べて見守っている。(中略)与一は目を閉じて「南無八幡大菩薩、とりわけわが国の神々、日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真ん中を射させてくれ給え。これを射損じる位ならば、弓切り折り自害して、人に二度と顔を向けられず。今一度本国へ向かへんと思し召さば、この矢外させ給うな」と念じて目を見開いてみると、風はいくぶん弱まり的の扇も射やすくなっているではないか。与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。子兵とはいいながら、矢は十二束三伏で弓は強い。鏑矢は、浦一体に鳴り響くほどに長いうなりをたてながら、正確に扇の要から一寸ほど離れたところを射切った。鏑矢はそのまま飛んで海に落ちたが、扇は空に舞い上がったのち春風に一もみ二もみもまれて、さっと海に散り落ちた。紅色の扇は夕日のように輝いて白波の上に漂い、浮き沈みする。沖の平氏も陸の源氏も、これには等しく感動した。

 屋島の戦いでは当時の四国水域を支配していた熊野水軍が源氏の見方となり、平家は敗退するのですが、真偽の程は分かりませんが、この熊野水軍の統率者である熊野別当の湛増は弁慶の父と伝えられております(御伽草紙など)。これはどうも物語を面白くするために作られたのではないかというように感じます。この熊野水軍が源氏方につくにあたっては、赤白各7羽の鶏を闘わせ(闘鶏神社:紀伊田辺駅の近くの社)、その結果、全て白の鶏が勝ったためと伝えられております。もっとも家来には平家にも身内が多く、源氏に加担するための演技だったとする説が本当のようです。源平で赤と白の区別がはっきり決まっていたことが伺えるのも面白いですね。

 平家は壇ノ浦の戦い(3月24日)にも破れ、滅んでいきました。那須与一は扇の的を射た褒美として、源頼朝より那須氏の総領(後継ぎ)の地位と領地として五カ国内の荘園を与えられたと伝えられています。 また、与一は文治3年(1187)、それまでに平氏に味方し行動を共にしていた兄9人と十郎に那須各地を分地し、これ以降那須一族は那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていったということです。那須の地名から那須与一を思い出す方は歴史通かも知れません。その那須も那須御用邸があり、温泉ときれいな紅葉は素敵ですが、いろいろな会社の保養所が相次いで閉鎖となり、段々と寂しくなっていくのは時代の流れなのでしょうか。

 ところでこの屋島での平家の船に掲げられた日の丸は、今の日の丸の色ではなく、平家物語では、皆紅の扇と書かれています。地がすべて紅(赤)となっています。では真ん中の丸はというと白ではなく金色だったようです。もし平家が勝っていれば日の丸の旗は赤地に金色になっていたかも知れません。また扇の語源は、“あふぎ”で風を送り「神霊を仰ぎ寄せる」ことを意味しており、厄除けになると思われていました。

与一の矢がもし外れていたら? 

 那須与一の矢が平家のかざした日の丸扇の的をもし外していたら、歴史も変わっていたのでしょうか? もし扇に当たらなかったら戦意も平家に傾き、日本の日の丸の旗は赤地に金色の日の丸となっていたかもしれません。この那須与一の技がどれくらい優れていたのかを検証した、面白い記事を見つけましたので紹介しましょう。

 「ここに現代の全日本遠的競技会に数度に渡り優勝の経験を持っている、那須与一と同年代の3人の射手によって、実験が行なわれました。ただし「平家物語」の記述中にある条件の「馬上」と「鏑矢」というのは設定が難しいので、海岸に立って遠的用の矢が使われました。

 これにより那須与一よりも有利な条件になってしまいましたが、そして距離を「平家物語」の記述では5〜6段「1段は6間」となっていますから約65メートルから75メートルの間となりますが、那須与一が弓を引く間際に、味方の者から声をかけられて少し扇に近づきましたから、それを考えて実験では60メートルに設定しました。

また舟に立てられた舟竿の高さは3メートルと仮定して、その先端に的を立てました。的は一回目は弓道の近的競技に使われる直径36センチの的を使い二回目は直径52センチの舞扇を使いました。実験は3人の射手が5本づつの矢を引き各々の射当てることができるかどうかを試みました。

直接、舟上にある的に向かって行射を開始しました。実験中に霧雨が降り出し的は的自信の半分ぐらいの幅でゆっくりと左右に動いています。そして的の近くには飛んでいきますが、上下左右にと矢は的を通り越していきますそして二本目、三本目、四本目と3人ともにはずしてしまい、残り一射となりましたが2番目の射手である、B選手が見事に的を射抜きました。次に挑戦の目的である扇を的に射ることにしました、60メートル離れたところにある扇は予想以上に小さく一本目、二本目、・・・四本目も3人全員外してしまいました、五本目各自最後の矢ですがA選手は真上にはずし、B選手は左上にはずしました。そしていよいよ最後に残った、C選手に一同の最後の望みをかけることになりました。

C選手はこの一矢に全身全霊をこめて静かに弓を引き分け、一瞬の後、矢は放たれ扇に向かって吸い込まれるように飛行。矢は扇の右上に見事命中しました。3人の中でただ一人が5回目で当てたことになります。」

 両軍の兵が見守る中、那須与一が扇の的をただの一矢で射落とすことができたのは与一の神業的な技量とともに、幸運にも恵まれていたのでしょう。那須与一の技量と、当時の弓の性能と、今回の3人の技量と現代の弓の性能とを比較するのは難しいですが、しかし弓の性能は現代の方が格段に上なのはたしかです。