鈴ヶ池と片目の魚                         

 昔、俗称、城中山(現在の石岡小学校の西)に鈴ヶ池と呼ぶ池があり、そこには府中落城の日の悲しい物語があった。

 時は、天正18年12月22日。名実ともに堅城不落を誇り、連綿24代続いた大掾氏も左近太夫浄幹の代に武運つたなく佐竹義宣のために敗北した。この年、豊臣秀吉が天下統一を目前にし、小田原城を攻め北条早雲を滅亡させた。まさに豊臣時代到来の時であった。浄幹の妻は園部城主の息女鈴姫といい、容姿美しい方であった。佐竹義宣は、府中石岡城攻略のため、まず園部城を打ち落とし、その園部の軍勢をもって府中へ、府中へと攻め寄せてきた。

刻一刻、砂塵をけってはせ参ずる注進は、いずれも味方の敗北のみ。浄幹の無念やるかたなく、鈴姫の悲嘆はいかばかりであったろう。

いよいよ観念のほぞを固めた城主浄幹はついに部下に命じて館に火をかけさせた。歴史的名城、府中城もたちまちのうちに、火の海と化し、黒煙と火の粉は勢いよく大空に舞い、突然、夢破られた夜鴉の群れは塒(ねぐら)を捨てて戸惑い舞い狂った

 この落城のさまを眼のあたりに見せつけられた浄幹は、ついに乱心し、づかづかと鈴姫に迫り「園部氏は、昨日は味方、今日は敵だ。そちも、また、わが妻でないぞ。思い知れ」とばかり、手にする刀で片目をつきさした。

 また一説には、戦乱にまぎれた鈴姫の目に敵方の流れ矢が当たり射抜かれたともいう。燃えさかる火中に浄幹は身を投じ、城と運命をともにした。また秘かに城から逃れた等々。

 鈴姫にいたっては、片目に死の烙印を押された鈴姫は、焼け落ちる棟木の火明に、身悶えの姿も哀れに城中の池へ身を投じた。なんと悲しい最後であったか。かくして石岡城は、亡びたのである。

それから後、この池にすむ魚は、不思議なことに片目で、悲劇的な鈴姫の恨みの表われだと語りつがれている。

         石岡の昔ばなし 仲田安夫著 ふるさと文庫 (1979年)

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