▼石岡城(外城)▼ 石岡市貝地1丁目、田島1丁目

歴史の里石岡ロマン紀行


 6号国道より高浜街道への道を少し進むと右に曲がる道がある(案内板がないので注意)少し進むと道が右に曲がるがまっすぐ進んでも神社に出る。少しわかりにくいがこんもりとした茂みがあり神社の隣のビニールハウス目印となる。平城といわれているが、城の裏手は恋瀬川と霞ヶ浦の合流点に近く、城があった当時はもっと霞ヶ浦も水が近くまで来ていたのではないかと思われ、少し高台に建っており、湖側からは攻め込まれない城であったものと考えられる。札掛神社:かつての石岡城の城主である札掛氏をまつる神社

 大掾資幹(すけもと)が常陸大掾となったのは鎌倉幕府が成立した翌年の1193年であり、居城をこの地に構えたのはそれから21年後の1214年であった。それから130年間はここが大掾氏の居城となっていた。その間府中城が建てられた旧国衙の地がどのようになっていたかはあまり定かではなく、何故この茨城(ばらき)の地に城を築いたのかも記録はあまりないようである。

(2007.3.18 撮影)

石岡城(外城)跡

 建保2年(1214)常陸大掾を継承して、常陸国衙において政務をとっていた大掾資幹(すけもと)は、鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、この地に居館をかまえた。これが石岡城の起こりといわれる。その後、大掾氏の拠点として城郭も整備され、税所文書には、南北朝動乱期の大掾高幹の居城として、府中石岡城の名前が見える。高幹の子詮国(あきくに)の代にいたり、大掾氏は常陸国衙を拡張して府中城を築き、本拠をそこに移したため、石岡城は外城(とじょう)と呼ばれたという。近世後期に書かれた地誌類には、大掾氏が府中城に移ったあとの城主として、石岡某・札掛兵部之助・田島大学などの名前が見え、天正18年(1590)の大掾氏滅亡とともに外城も廃城となっている。現在は、かつての城主であった札掛氏をまつる札掛神社と堀・土塁の一部を残すのみである。

石岡市教育委員会
石岡市文化財保護審議会

札掛神社から筑波山を望む

 
 

昔の土塁も一部が残っている。

 札掛神社手前の木の茂み。昔の土塁も一部が残っているが、当時の城の大きさを知る面影はない。

 
 また、円空城跡の台地より霞ヶ浦側を望む。家や畑もあり、当時の地形がわからないが、恐らくは近くまで湖が迫っていたように感じた。