▼陣屋門▼ 石岡市総社1-2-10

歴史の里石岡ロマン紀行


 現在、石岡の陣屋門は市民会館の入口位置から裏の石岡小学校の校庭の市民族博物館脇に移されている。移されたのは昭和44年です。江戸時代府中松平2万石の陣屋が置かれていたが、今はこの門だけが残っている。江戸時代の藩主は江戸に常駐しており、府中には役所となる陣屋が政務の中心として置かれていました。この陣屋門が建てられたのは9代目松平頼縄のとき,江戸小石川の藩邸を新築した際に余った材木を使い建築したものです。主として欅(けやき)材が用いられています。元々この地は常陸国衙があった場所でもあり、常陸大掾氏の府中城が築かれた場所でもあります。大掾氏が佐竹氏によって滅んだ後は佐竹氏の支配下になっていましたが期間はあまり長くはなかったようです。この石岡はやはり大掾(だいじょう)氏の面影がもっとも強いようです。松平家は2万石とあまり大きくはありませんが徳川御三家である水戸徳川家の分家でかなり重要な地位を占めていたと思われます。しかし、170年と比較的長く統治していた松平家の面影を残すものはあまり数多くありません。


  

 現在の市民会館入口に置かれている石碑で、昔はここに陣屋門があり、石岡小学校の入口部でもあり、子供たちはこの門をくぐって学校に言っていた時もあるようである。  

 

「石岡の陣屋門」 県指定有形文化財

 石岡の陣屋門は、文政11年(1828)2月に建てられた。元禄13年(1700)、初代水戸藩主徳川頼房の5男松平頼隆が府中藩主となり、以降明治維新に至る約170年の間、石岡地方は府中松平藩の支配下にあった。府中松平氏は、水戸徳川家の分家として「御連枝」と呼ばれた。江戸時代に代官その他の役人が在任した屋敷や役宅は、一般に陣屋あるいは、陣屋敷と呼ばれていた。
 石岡の陣屋門は、本柱の上に妻破風造の屋根がつき、本柱の控柱の上にも、本屋根と直交してそれぞれ別棟の小屋根をつけ、扉と控柱とを覆っている高麗門の形式である。
 この門は、冠木と棟木間が土壁で閉ざされている高麗門に比べ、冠木が本柱を貫きとおし、また冠木と棟木間に格子を組み入れるなどの手法を見せている。

    昭和63年1月
        石岡市教育委員会
        石岡市文化財保護審議会
 

石岡小学校の校庭側の門の内側に置かれている陣屋門