▼柿岡城址・片野城址▼石岡市柿岡2151/石岡市根小屋

歴史の里石岡ロマン紀行


市指定史跡

旧八郷地区に戦国時代にあった二つの城(古城)を紹介します。

 

柿岡城址(現柿岡小学校)

<現地案内板>

柿岡の西南館地内の高台にある。三方を田園にかこまれ、西北の一線が善慶寺を境として町家に接し残塁空濠四辺をめぐってその間に民家が軒をつらねている。源頼朝が幕府を開いたころ、常陸守護職に補せられた八田知家がその子小田時知(時家ともいう)をここにおいたといわれ、それからのち代々柿岡氏を称え、東西三キロの片野城とともにこの地方を支配していた。戦国末期には、梶原美濃守政景居城となったが、天正元年小田天庵氏治が太田三楽父子に攻められて敗退するや、柿岡城には真壁房幹が入った。文禄四年(1595年)の秋から長倉義興が居住すること六年、慶長五年(1600年)に急死した。その後国分盛重に代ったが、徳川になってから後、九州柳川立花氏の領地となり、稲葉正勝の領地を経て徳川氏の直領として代官の支配となり、明治維新まで続いた。

昭和52年10月 石岡市教育委員会

片野城址(根小屋);太田三楽斎の城

<現地案内板>

この城は、文永年間(1264〜1274)の頃、小田氏の一族八代しろ将監が小田城の北の守の砦として片岡から移り、佐久山に築いたと伝えられる。その後、佐久山の北にあたるこの一画は永禄九年(1566)ごろ、武蔵国岩槻から来て佐竹義重にここを預けられた太田三楽はここにきてから3〜4年、佐竹からの招きに応じて、柿岡城の梶原政景と協力、小田氏を国外に追ってのあとも三男資武とともに片野城にいたが、天正十九年(1591)の秋、69歳で病死した。その後、石塚城(常北町)の石塚源一郎義国が城主となったが、やがて徳川の世となり、慶長七年(1603)に佐竹氏と共に秋田に遷り、次の領主羽柴壱岐守(滝川氏)が城が廃されるまで四代に及んでここにいた。

昭和59年3月 石岡市教育委員会

稲葉正勝は春日局(お福)の子供(長子)であり、お福が竹千代(後の徳川家光)の乳母となり、子姓として竹千代に仕える。家光にかわいがられ柿岡城の城主となったのは元和8年(1622)5000石であった。2年後には1万石に加増され、1628年には父の遺領(真岡藩)も継いで4万石となった。その後の熊本城受取の働きを認められ、寛永9年(1632)に小田原城85000石の城主となった。江戸幕府の老中となったが38歳で没した人物である。正勝が小田原に移って後は柿岡藩は天領となった。

 

小学校敷地内に建てられた案内板

 片野城址は片野地区ではなく根小屋地区の山中にある。少しわかりにくいので一番下に地図を載せてあります。この城は文禄年間初期までは柿岡城とともに小田氏側の城で、東の府中城大掾氏に対する最前線の城であった。文禄7年(1564)に上杉謙信が小田城攻撃などにより形勢は変り、佐竹義昭が制圧し、岩槻城主であり、北条に通じた嫡男・氏資に城を奪われて流浪していた太田(三楽斎)資正にこの城を与え、佐竹氏の小田氏征伐に対する出城的な役割を担ってきました。太田三楽資正は息子梶原政景(柿岡城)と協力し小田氏を筑波山麓の手這坂で打ち破り、小田城を与えられたがこれを息子の梶原政景に譲って、この片野城で70歳で死去しました。墓が高台に眠っています。太田資正はあまり知られていませんが、戦国時代の智力・武勇に優れた武将の一人と数えられています。

城址の入口である。通りから引っ込んだ位置に看板があるため見落としやすい。入口に立つ案内石碑


柿岡小学校の入口。4月末の撮影時は垣根や花壇の花が優しく迎えてくれた。城址の建て看板は入口を入ってすぐ右側にある。

入口に立つ案内石碑。ここを登ると下記写真の広場にでる。

小学校の北西側には「高齢者センター」と善慶寺がある。高台の土手はここまで続いている。4月の始めに行ったときは桜が満開であった。


 

城址入口を登ると畑が広がっていた。そこからは筑波山が美しい姿を見せていた。

柿岡小学校の敷地が昔の城跡であるが、回りはほとんど平地で、ここだけが少し高台(土塁)になっている程度である。桜の時期は一際遠くからも目立つ存在である。

城址入口脇に残る土塁。昔の面影が残っている。

柿岡小学校の庭にのこる古木(桜?)。

この左側が城跡の森である。車はここに2-3台置くことができる。通りには案内板がないので通り過ぎないように気をつけて下さい。

小学校の境界は昔の土塁の跡と思われる。桜の植木が多いが後から植えなおされたものと考えられる。

<柿岡城まつり>

毎年11月中旬の日曜日商工会祭りとして「柿岡城まつり」が行なわれています。地元の学生による吹奏楽演奏や大道芸人などの楽しい催しで賑わいを見せています。


佐竹氏の秋田移封に伴って、この城
は滝川氏が四代にわたって支配してきました。滝川氏の墓は麓の禅寺「泰寧寺」の山県大弐の墓と並ぶように立っています。

片野城城主である太田三楽資正の面影を見る

城主太田資正(三楽)公の五輪塔。片野城址の案内板より一つ石岡側の山の上にある。(地図参照)


太田資正の墓はこの堂の横にある墓所の一番奥にある。お堂は無人で「佐久山」と書かれており、八重桜とツツジがきれいに咲き、ウグイスが啼いていました。(2008.5.3撮影)


片野城のあった山の麓は根小屋地区であるが、ここから田圃をはさんで筑波山よりに片野地区がある。ここにも太田資正公の面影を偲ぶことができます。上の写真は片野上宿バス停にある民家。この横を入ると片野八幡神社(下)。


現地案内板城址の場所がわかりずらいので上記に地図で場所を表わしました。片野城はこの案内板の位置のみでなく根小屋地区の山林全てに及んでいたかなり大きなものと考えられます。

片野八幡宮 訪れた時は本殿などを新しく再建されていた(2008年5月3日)

県指定無形民族文化財(昭和37年10月24日指定)

<片野排禍ばやし>

十六世紀末、片野城主太田三楽が当、八幡神社を建立した際、わざわいを排するため奉納したことを起源としたと伝承されている。踊りは四番に区分される。はじめは獅子舞で、武家の威厳圧制を示すという。品格のある踊りである。二番目はおかめで、戦国時代の女性の忍耐とおおらかさを表現しているという。女形の踊りは巧みなしぐさとしなやかさで心和むものである。三番目はきつね踊りで速いテンポ、力強い足さばき、リズミカルな顔の表現など躍動に満ちたもので、農民の生活力をきつねの滑稽さを通じて表現しているという。最後はひょっとこでおどけた面の表情や洒脱なしぐさに観衆も引き込まれ、舞台にあわせて踊りの輪が境内に広がる。笛、鐘、大小の太鼓のはやしは各番の変化にあわせて絶妙にひびきわたる。緑ゆたかな片野の里に生まれ、歴史の風雪によって磨きぬかれた伝統に輝く踊りである。郷土に誇りを持つ人々によって守り育てられなければならない貴重な民族文化財である。

平成元年八月   石岡市教育委員会

(7月第3又は第4日曜日と10月の第3日曜日の年2回行なわれる)