▼万福寺▼ 石岡市茨城1丁目12番21号

歴史の里石岡ロマン紀行


 貝地の高浜街道のばらき台団地入口に万福寺があります。万福寺は曹洞宗光林山万福寺といい、文明6年(1412)税所(さいしょ)貞成の開祖とされ、その後税所(さいしょ)氏の菩提寺となった。この辺りに税所氏の屋敷があったと考えられています。税所氏は、常陸国の税や官物の収納をつかさどる役人として、その地位を固め大きな力を持っていました。寺の裏には税所氏代々の墓があり、五輪塔や石塔が多数建っています。また税所氏は百済の朝臣であったと寺の位牌に残されています。始めのうちは百済氏が税をつかさどる官職に代々ついてきたので、役職名から税所氏と名乗るようになったものと思われます。また青屋祭の司祭を世襲化させています。この地域は茨城県の名前発祥の地ともいわれ、茨城と書いて「ばらき」と読ませています。また隣りの貝地は昔「廨地」と書き、役所の税や文書管理をしていたことを表わしています。朝鮮半島南部に存在した百済は西暦600年に唐により滅ぼされた。その時、関係の深い倭国(日本)には数千人の百済人が逃げてきたといわれており税所氏との関係があったのかははっきりしていない。

 

本尊は善光寺式銅製の阿弥陀如来三尊立像で、県の文化財に指定されています。

阿弥陀如来及両脇侍立像、銅造鍍金三躯。像高は中尊49.2cm、観音33.8cm、勢至33.5cm。
 永仁3年(1295)の造立銘があり、典型的な善光寺式阿弥陀三尊像である。三尊とも一鋳からなり、中尊は蟻柄差し、両脇侍は両肩蟻柄差し。
 宝冠正面に化仏などを差し込んだ穴が残っている。
 中尊像内の心木には年紀のほか、檀那・勧進僧・大工などの人名が記され善光寺式の基準作の一つである。

(現地案内板より)

 

 萬福寺の左、脇道を約20m程入っていくと、畑の中に110cm角ほどの「きんちゃく石」の立て看板があります。言い伝えられた説話は右の通り茨城童子の巾着用根締め石であるが、茨城廃寺の五重塔の露盤(塔の一番上で方形の屋根を押さえ、飾りの相輪を通す穴が開いている石)である。

 

 茨城童子と巾着石

昔、石岡の染谷と村上にある龍神山に、茨城童子という巨人が棲んでいて、夜半に村里に下りてきて人間をつかまえては食べていた。童子は、つかまえた人間を入れる大きな巾着袋を腰に下げており、袋に捕まえた人間を入れるとその口を大きな石の根締めでくくっていた。近郷の子供達は茨城童子と聞いただけで震え上がった。そのような茨城童子だが、ある時、西の方の国から茨城童子を征伐に来るという噂が伝わってきた。それを聞いた茨城童子は、すっかり驚いて、裏の方にある三角山を飛び越えて何れかへ逃げ去ってしまった。その時、腰に下げた巾着袋が邪魔だと放り投げた。はずみで巾着の根締めは萬福寺の辺りまで飛んできて、畑にめり込んだ。