▼三村城址▼ 石岡市大字三村

歴史の里石岡ロマン紀行


 三村城址には現在は三村小学校が建っている。小高い丘の上である。ここに16世紀に大掾慶幹の次男常春(つねはる)が城主となって、府中城(長男貞国が継いだ)の南の小田氏の進入を防ぐために建築されたものであるが、小田氏との攻防は激しく、ついに1573年に落城し、常春は25歳の短い運命を閉じた(自害?)。現在の三村小学校の校庭より回りを見渡してみると、かなり急な坂が回りを囲っており、敵の侵入を防ぐには適していたと思われるが、逆に敵に囲まれやすく、孤立しやすかったものと考えられる。常春の墓(五輪塔)はこの山を下りた常春寺の東の田んぼの線路脇にあるとのこと。それから450年もの年月が経っているが、往時の面影がまだ残っているのは不思議な感じである。翌年の1574年には小田氏の土浦城も佐竹軍により落城してしまう。三村城が何年間あったものかは定かではないが、わずか数年の短い命であったものと思われる。まわりの地域には「城の内」「城構内」「御城」などといった地名も残っている。

 三村城址遠景(高浜側より)

三村の地は石岡(府中)側は霞ヶ浦の浅瀬をはさんで高浜の町があり、三村城の役割は敵地に入り込んで死守する場所となっていたのではないだろうか。当時の府中城は兄の貞国が城主となっていたが、4年後の1577年に戦死している。その後の府中城は最後の城主清幹が5歳で址を継いだが、23歳で佐竹氏に滅ぼされてしまうのである。

(2007.8.26 撮影)

三村小学校入口に立つ案内板より

三村城は、府中城主大掾慶幹の次男常春の居城で、天正年間(1573〜1592)の初期に築城されたといわれる。
 常春は、府中の南方を防備するために、従来の館付近を中心に、改修・拡張を重ね、現在の三村小学校の敷地を中心とする一帯に城を築いた。しかし、天正二年(1574年)小田氏に攻められて落城し、城主常春も短い運命を閉じた。その墓は、城跡より東方約400メートルにある。また付近には菩提寺常春寺がある。
 現在も城跡を中心に堀の内・城構内・御城といった地名が残されており、城郭の規模・形態をしのぶことができる。

石岡市教育委員会
石岡市文化財保護審議会

 
 常春公の五輪塔(大きな椿の木の下にひっそりとあった) <秘話へ