▼如来寺▼ 石岡市柿岡2741−1

歴史の里石岡ロマン紀行


如来寺は親鸞聖人の二十四人の弟子 第四番 乗然房領海により建てられた寺である。大覚寺は親鸞聖人と山伏弁円との足跡を残す板敷山の麓に建つ寺であるが、ここは親鸞の弟子が残した24箇所の寺の一つ(石岡市では他に真家地区にある弁円の19番明円寺がる)である。 場所は旧八郷町役場(現八郷総合支所)のすぐ裏手である。
 乗然房領海は上野国片岡郡の武士で、片岡源九郎親綱といった。兄が命により鹿島神宮の大宮司となり家名を継いだが、この兄が鹿島明神のお告げにより親鸞の第3番弟子(順信房)となっていた。親綱はあるとき本尊の霊夢により、建保3年(1215)に稲田の親鸞聖人の草庵を訪れ、4番弟子となった。聖人の形見として太子像を賜り、「帰命山無量壽院如来寺」と号し、霞ヶ浦岸辺の木原に草庵を建てたのが始まりで、明応7年(1498)にこの地に移された。隣に芭蕉の句碑がある。
   『能く見れば薺(なずな)花咲く垣根かな』

 親鸞は師と仰いでいた法然とともに1207年に興福寺の訴えにより越後に流罪となった。4年半後にその罪を許され、法然は京都に戻った。しかし親鸞は越後でその後3年を過ごした後、妻恵信尼とともに常陸国へ向かった。上野国などを経て、2年後に稲田(現笠間市稲田)に草庵を構え、布教と法然の教えの浄化に勤めた。

 原初は、霞ケ浦に面した木原という地に結ばれた草庵であるという。この草庵は、聖人が村人の請いによって湖の沖合に光るものを網にかけたところ、一体の阿弥陀如来像であったため、この縁を喜ばれて建てられたものといい、後に現在の地に移転してきた。霞ヶ浦の阿弥陀如来像の話は次のようなものである。

 親鸞が常陸国へ足を踏み入れたのは建保2年(1214)である。ちょうどその年の秋、霞ヶ浦の三叉沖の湖中に怪しく光るものが発見された。驚いた魚たちは逃げ隠れし漁獲量が減って、漁夫たちは生活にも困りはじめた。そうしているうちに翌年の3月14日に、太陽が霞ヶ浦の水平線に沈む頃、白髪の老人が浮木に乗って木原の里浮島というところにやってきた。不思議に思った漁民たちが集まってくると、その老人は「吾は是れ鹿島明神なり明日親鸞聖人と申す末代の名僧此の処を御通行あらせらるべし汝等かねがね恐るる彼の光ものをご覧に入れ、御済度を願ふべしゆめゆめ疑うことなかれ、又我乗り来たれる此の浮木は天竺より渡来したる名木なり、聖人に献じ奉れ」と告げるとその老人は突如として消えうせた。その老人のお告げ通り翌日聖人が現れたので、漁民達は驚いてその光りを見せた。聖人は自ら船に乗り、光り物に網をかけて引き上げたところ一体の阿弥陀仏が上がったのである。そして聖人のお弟子になった乗念坊は信田(志田)の浮島に草庵を建てお念仏の道場にしたと言うのが如来寺の縁起です。また仏像を奉った漁師は親鸞上人の教えを受け,阿弥陀仁左衛門と呼ばれました。この阿弥陀如来像は現在滋賀県野洲市木部の錦織寺に奉られているようです。



 主本堂に「聖徳太子浮足の像」が残されている。

浮足の像とは、太子像の足が、台上から半紙1枚が通るほどの空間を保ち、身体が浮上していたことにより『浮足の像』と呼ばれている。