▼大山草庵跡(親鸞旧跡)(おおやまそうあん)茨城県東茨城郡城里町大字阿波山664−1

歴史の里ロマン紀行(城里編)>


親鸞聖人の大山草庵跡(浄土真宗開宗宣言の地)

親鸞聖人は流罪として過ごした越後より関東への布教のため建保ニ年に(下妻市)小島に草庵を結び、同年(笠間市)稲田の領主であった稲田九郎頼重に招かれて布教の中心である「稲田草庵」に移り住んだとみられます。稲田から大山まで約20km、小島まで約30kmあります。親鸞の弟子達の興した寺は稲田草庵よりほぼ30kmの範囲内に散らばっており、稲田が活動の中心と考えられているようですが、何処に先に草庵を結んだのかなどあまり詳しい資料が残されていないため諸説があるようです。

 

国道から見た入口(隣りが桂中学校)。木々の奥は「阿波山上神社」

 

 

大山草庵の由来 -開宗宣言の地-

浄土真宗の開祖、親鸞聖人は、建保ニ年(1214)越後の国から常陸に入り、建保四年(1216)には、この大山の地に歩を運ばれ、ここを常陸奥郡の布教伝道の中心地とされました。
当時、大山には聖人の師法然の弟子であった行観上人が建暦ニ年(1212)に開山したといわれる浄土宗の阿弥陀寺がありました。親鸞は、師法然のゆかりの寺を頼って、この地にこられ、その境内に草庵を結び、諸公達の懇願により建保四年十一月八日には、法然の三回忌法要を三尊六高祖を安置され、厳かにとり行われました。従って、これを真宗興行の法要といい、大山草庵は開宗宣言の地と言われています。
聖人の教えを受けた人達は数多く、中でも入信房、明法房は有名であります。その後、二台定信、三代如証、四代信善、五代信真、六代真順と続き、七代信如の明徳三年(1392)に額田城の守護寺となりました。爾来、血脈相承により、現在に至っています。
一方、浄土宗阿弥陀寺は、水戸藩主徳川斉昭公の寺院整理により天保十三年(1842)に廃寺となり、今は往時を偲ぶものとして古い墓石が散見されるだけであります。

桂村史談会

 

草庵跡に隣接する延命地蔵尊