▼三光ノ宮▼ 天平時代のトラウイアングル

歴史の里石岡ロマン紀行


<日天宮・月天宮・星之宮>国分寺創建以来の由緒ある古社

常陸府中の町は今から1300年前の天平時代(奈良時代)の国分寺建設時期より始まっているが、この日天宮(国府七丁目)、月天宮(貝地一丁目)と星之宮(府中五丁目)はともに同じ時代に創建されたと見られています。日天宮は太陽の神「天照大神(あまてらすおおみかみ)」を祀っており、月天宮は天照大神の弟「月読尊(つきよみのみこと)」を祀っています。この二つのお宮は石岡(府中)の町の東西の入口に位置しています。これは鹿島神宮と香取神宮が霞ヶ浦(古代香取の海)の左右入口を守る位置に配置されているのと似ています。鹿島・香取神宮に息栖神社を加えると強烈なトライアングルが出現することは良く知られていますが(こちらのページを参照)、こちらの日天宮、月天宮と星の宮を結んでもトライアングルが出現します。これは、星の宮が北斗七星を祀る神社で北極星の方向を意識して配置されたものと考えられます。北極星は常にその見える方向が変らないため、天平時代の人たちにとって、太陽・月に次いで信仰の対象となったものと思われます。

街灯などの明かりがほとんどない時代に、夜空を見上げた時の星の動きなどにも敏感であった当時の人々の暮らしが偲ばれるようです。民間信仰として祀られてきたため、規模は大きくないがそれぞれ長い間地域に支えられてきたのが感じられる。残念ながら星之宮は現在は常陸総社宮に合祀され、現存していないが、地名が残っている。



 三光の宮のトライアングル

 日天宮(にちてんぐう):石岡市国府七丁目4番

古くから、太陽、月、星は人々の信仰の対象となっていたが、常陸国衙が置かれた石岡には、それらをまつる社殿として、日天宮、月天宮(貝地一丁目)、星の宮(府中五丁目)が創建された。のちにこの三社は「府中三光宮」と呼ばれるようになったが、現存するのは、この日天宮と月天宮で、星の宮は、、地名にその名を残すのみである。

日天宮の祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)で、現在大小二つの鳥居と間口5.4mの社殿、裏には奥の宮がある。また、日天宮が古くからこの地域の人々の信仰をあつめたこともあって、本殿左には間口3.6mの稲荷大明神、右には御岳(おんたけ)神社がある。(現地案内板)

日天宮は国道から旧道に入ってすぐにある。6号国道を恋瀬川を渡ってすぐに、石岡市街方面(旧水戸街道)へ斜めにいったすぐ先にまた斜めに入る細い道があるが、この道の左側にある。入口に二つの鳥居があるが、その左右は家の軒が迫っており、民家の脇を入っていくようである。

御岳神社

大小二つの鳥居と稲荷大明神

 

月天宮(がってんぐう):石岡市貝地一丁目2番

 月天宮の祭神は月読命で、本殿は間口6m、奥行5.5m、参拝口は間口2.1m、本殿のうしろには、参拝口と同じ大きさの奥の宮が張り出しになっている。また境内には、月天宮が古くからこの地域の人々の信仰を集めたこともあって、子安観音堂、弘法大師堂などがある。大師堂には、念仏講中の老人たちが家々を回って数珠を繰り、念仏往生を祈願したという「百万遍数珠」が保存されている。(現地案内板)



 月天宮本殿

 

星の宮:石岡市府中五丁目

星の宮は現在はなく、地名のみ残る。昭和36年発行の図説石岡市史(石岡市教育委員会編)によれば、星の宮は近年まで、香丸町の氏神として祭事が行なわれていたとのことで、香丸町に「星野宮記録」があり、徳川時代を偲ぶ好資料とのことである。また、神社としては総社宮に合祀されたとのことである。

  星の宮があった付近(写真の空き地の左奥に見えるのは石岡ニ高)

市制30周年記念「石岡の歴史」によると、星之宮は、北斗七星を祀る妙見信仰のお宮であり、かって在庁官人が祭典を執行したと伝えられるが、近世以降は香丸町の商人たちの講によって祭事が行なわれた。講は3月15日を祭りの日と定め当番が行事を運営したが、その当番が講の記録としてその年の市内の出来事などを記録していた(香丸日記)。現存する記録は嘉永5年以降のみであるが、諸物価や景気の動向、異国船渡来情報、若松町の仇討ち、五品江戸廻送令、井伊大老暗殺、天狗党騒動などが記されている。

 

  常陸総社宮に合祀された星之宮。内部に屋根などが朽ちた小さなお宮が見える(左の写真)。総社の随神門をくぐったすぐ右側に建てられている。