▼染谷佐志能神社▼石岡市大字染谷字峠下1857-2

歴史の里石岡ロマン紀行


 染谷佐志能神社は400年もの間伝えられている「染谷十二座神楽」で有名である。毎年4月19日に実施され、市指定有形民族文化財となっている。ここを訪れたのは、10月下旬の台風が過ぎた後の陽射しの眩しい朝である。場所を探して少し廻りをウロウロしてしまった。風土記の丘の前を過ぎて、少し八郷側へ行ったところに「竜神山霊園」の看板のところを曲がって進めばそのまま神社の入口へ出る。入口の鳥居をくぐってしばらく行くと2番目の鳥居がある。その先には3番目の鳥居もある。そこからは急な階段を登る。周りに誰もいないと少し不気味である。心霊スポットとしても名前が挙げられているのもうなづける。元々は村上村に属していたが染谷に分割された。村上地区は昔から多くの人(1000軒ほどあったとのこと)が住んでおり、竜神山の湧き水で豊かな暮らしをしていたようである。ただし、地盤が固く井戸が掘れずに後には山の恵に頼っていたようである。竜神山は雨乞いの山でもあった。

 二番目の鳥居

 

(2007.10.28 撮影)

1番目の鳥居

佐志能神社は、染谷佐志能神社と村上佐志能神社の二社があり、ともに龍神山の龍神(雨の神)をまつっている。染谷が高おかみ神(雌龍)、村上が闇おかみ神(雄龍)である。二社とも創建年代は明らかではないが、農耕に不可欠な「雨の神」をまつることもあって、古くから付近の村人たちの信仰を集めた。
 染谷佐志能神社の本殿左手の屏風岩には、「風神の穴」と呼ばれる穴がある。この穴に指を入れると、雷鳴がなるまで抜けなくなってしまうという伝説があり、夏になると、ここから黒雲がまき起こって雷神が現れ、雨を降らせるという。
 毎年四月十九日に例祭があり、この時奉納される「染谷十二座神楽」は、四百年の歴史をもつと伝えられ、現在まで残っている数少ない「里神楽」のひとつとして、市指定有形民俗文化財となっている。

*市指定文化財(昭和56年11月25日指定)*
染谷十二座神楽(有形民俗)

   昭和60年3月
      石岡市教育委員会
      石岡市文化財保護審議会
 

十二座神楽(巫女舞)

@猿田彦の舞、A長刀(なぎなた)つかい、B矢大臣、C剣の舞、D豆まき、Eキツネの田うない、F種まき、G巫女舞、H鬼の餅まき、Iみきの舞、Jえびすの舞、K天の岩戸の12座である(1〜4は四方固めと祓いの舞で1人 舞いである)。地元の子供たちも公民館で練習し上記「巫女舞」や天の岩戸などに踊りを披露している。(石岡のおまつりでも中日に総社宮で披露される。詳細はこちら

風神の穴

(伝説:指を入れると、雷鳴がなるまで抜けなくなる)

 
 

村上地方の昔話 : おみたらしと雨乞い

 筑波連山が火山系の花崗岩であるのに対し、竜神山のみは水成岩(粘板岩)で構成され、その露出した地域は、南は小桜村半田(八郷)北は園部村(八郷)まで伸びている。竜神山のふもとの村上部落は、地下1〜2mの深さまで岩盤のため、昔から井戸はなかった。掘ったとしても粘土質のため飲料水にならなかった。このため、「村上に井戸なし」といわれ、村人は大変くらしに不自由していた。しかし、粘土質のため、その土で瓦を焼く瓦焼きは3軒もあるのである。村上の水は昔から村上神社の境内の「おみたらし」からもらい水をして飲料水として使用していた。村の女衆は手桶を下げ、男衆は天秤棒に桶を二つ下げて山から水を運ぶことが日課となっていた。この「おみたらし」の水は大変豊富で、旱天でも水が枯れることはなかった。そのため村上ばかりではなく、遠くは東大橋や小川あたりの農家の人も弁当持参で水を汲みに来たという。村上神社につくと神主にご祈祷してもらい、竹筒に水を入れて帰るのであるが、帰るときは途中で休憩することはなかった。それは、途中で休むとその場所に雨が降るといわれていたからであった。特に旱天(ひでり)に雨乞いをする時は、自分の土地に雨が降らずに、途中で降られては困ると信じられていたのである。竹筒に入れた水は家に帰ると神棚にあげ、雨の降るまで一心にお祈りしたとのことである。今でも農家の人たちは、初米ができると、村上神社へお供えに行く人がいるとのことです。(子は清水のお話はこちらを読んでください)