▼志筑(しづく)城と志筑藩▼ かすみがうら市中志筑

歴史の里石岡ロマン紀行


明治維新の激動時代に小さいけれど異色な輝きをはなった志筑藩

 石岡の市内から恋瀬川を国道6号より一つ筑波山側の橋(府中橋)を渡り、恋瀬川に沿って上流方向に進むと下志筑(しもしづく)である。まもなくコンビにとガソリンスタンドのある信号の先が上り坂になり、左側に昔の城の堀跡を思わせる池がある。このあたりから中志筑である。陣屋門、長者屋敷の塀、茅葺の母屋など昔を偲ばせる町並みが残っている。ここ志筑(かすみがうら市)地域は、江戸時代に8千石の旗本・本堂氏が志筑藩を支配しており、戊辰戦争では、周りの諸藩の多くが傍観を決め込んでいたが、いち早く新政府軍に協力した。その功が認められ一万百十石の大名に取り立てられ、江戸時代より続けて一つの領主の支配が続いた近郊では数少ない地域である。また一方新選組で活躍した伊東甲子太郎・鈴木三樹三郎の兄弟は志筑藩を脱藩している。志筑藩は小さな石数の領地の小藩であったが大名と同じように参勤交代などの義務があ、また近くの稲吉宿の助郷役の負担も負っていたため財政は厳しく、安永2年(1773年)百姓一揆(助六一揆)が起こっている。

【メモ】本堂氏は先祖を源頼朝の落胤とし、秋田県南部を本拠としていた。天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻撃した時、本堂忠親が参陣し、その軍功により秀吉から大名の地位を認められ「領知朱印状」をあたえられた。その当時は五万五千石以上あったが、豊臣政権下では領土は守られたが大きく減封されたという。慶長六年(1601)、本堂忠親の子茂親の代に、徳川家康より国替えを命じられ(佐竹氏が出羽に国替えとなったため)志筑地方八千五百石(後に分知により八千石)の領主となった。第十代・親久の時の1868年、新政府に忠誠を誓って一万百十石に加増され、大名に昇格。版籍奉還で志筑藩知事、廃藩置県で志筑県知事を拝命した。1884年には男爵となった。志筑小の校章は本堂家の家紋を使用している。志筑八幡神社には本堂氏が戦場で使用した采配が奉納されている。

(写真撮影:2008年2月10日)(訂正:志筑小学校は2011年9月1日に通りの反対側の丘の上に移転しました)

志筑城跡(現志筑小学校) 現地看板

こ志筑城は、鎌倉時代源頼朝の家臣下河辺政義(後益子氏)が、養和元年(1181)頼朝に叛いた浮島の信太義広を討ち、その功により茨城南部の地頭となり、この地に城を築いたのに始まる。この城跡は、三方が深田に囲まれ、南側に自然の掘割を擁した天然の要害で、土塁など鎌倉時代の築城方式を今に残している。南北朝時代、五代の顕助、国行父子は小田城主治久と共に南朝方に属し、北朝方の石岡の大掾高幹としばしば戦いを挑み、半年間も戦闘を続けたが興国2年(1341)11月小田落城の報を聞き、翌日六代国行は城を捨てて一族の小山氏のもとへ走り、その後も南朝方のために忠勤をはげんだという。 その後廃城となっていたが、慶長7年(1603)佐竹氏の国替えに伴い、出羽国(秋田県千畑町)より当地へ移封となった本堂茂親が志筑藩の領主となって、正保2年(1645)ここに陣屋を構えて廃藩置県まで本堂氏十二代の居城となっていた。

(茨城県指定史跡 昭和10年11月26日 千代田町教育委員会)

陣屋は現志筑小学校の敷地にあった。陣屋門は現在の小学校の入口に建っていたとのことである。初期の陣屋は天明8年(1788)に一度焼失し、その後再建された。しかし、明治7年の小学校建設時に取り壊されたようであるが、写真にあるように当時の中庭を生かす形で校舎が建っている。庭には大きなクスの木が当時と同じようにそそり立っている。



  小学校
裏側は崖になっており下には万葉集にも歌われた師付の田井の田園が広がっている。その向こうに見えるのは石岡の風土記の丘近くの竜神山です。この城跡の台地が自然の要害となっていたことがわかる。

(訂正追記:小学校は2011年9月1日に志筑の街の通りの反対側に新しい校舎を建てて移転しました。その後、この城跡の校舎や学校看板は取り壊され、現在は門柱だけが残る空き地となっています。 2012.11.3 記)

 

志筑城址坂下にある池(旧堀跡?)。池の向こう側が五百羅漢の長興寺である。

通路脇には昔を偲ばせる長い塀が残っている。

 

 


茅葺屋根には、つくば地方独特の模様(つくば流茅葺き)が見られる。デザインと技術は全国トップレベルです。八郷地区をはじめ多くの茅葺屋根を保存する会などの保存活動には頭が下がります。

中志筑の街道沿いにある茅葺の曲がり屋の建物。旅籠であったものか?

 

中志筑町の中心地にある立派な屋敷門。新しくなった志筑小のホームページによると新選組としても名の知れた伊藤甲子太郎、鈴木三樹三郎兄弟の母親の里らしい。兄弟の生家はこの建物の裏側の方に入ったところにあるそうです。詳細はこちらのHPを確認ください。(2012.11.3記事内容誤記により訂正)

志筑藩の陣屋門は市内に移されたと聞いていたのですが、この門ではなく北西の方向にある高倉地区に移されたようです。陣屋門は志筑城跡の入口(旧小学校の入口付近)に建っていたとのことです。初期の陣屋は天明8年(1788)に焼失し、その後再建されたそうです。本堂氏は外様であったが、交替寄合旗本として大名並の待遇を受けており、江戸の愛宕下に上屋敷、深川に下屋敷を与えられ、ここ志筑は家老などが守る陣屋があったのです。

左の家の通りの反対側にも立派な屋敷塀と門があります。志筑藩の陣屋に使われていた玄関をこの家の玄関部分に移築して使われているそうです。(2012.11.3記事内容誤記により訂正)

戊辰戦争がはじまった時、家老の横手信義などの働きで、家中を勤王色にして、いち早く新政府軍に協力した。この功により明治4年の廃藩置県まで短い間ではあったが、志筑藩が認められた。

 

木造十一面千手観音像(昭和38年8月県指定彫刻)

 俗に観音様と呼ぶこの寺院は、朝日山慈眼院千手寺と称し、真言宗の寺で本尊に十一面千手観音像を安置している。この像は木造金箔塗りの立像で高さは180cmあり鎌倉時代の作と言われる。堂宇は元禄15年(1702)、領主本堂氏を始め近郷近在の善男善女の浄財により再建されたもので、檀家を持たない祈願寺である。収蔵庫は観音像保護のため、昭和47年5月に建てられたものである。(昭和4年 千代田町教育委員会)

千手観音堂は石岡市染谷の宝持院の末寺だそうです。(追記:2012.11.3)

石岡側より下志筑を通り、中志筑への坂の上り口にある池。旧お堀の跡と考えられる。このような池は小学校の麓、長興寺入口付近にも残されている(写真上段側)。

 

新選組参謀・伊東甲子太郎と鈴木三樹三郎の兄弟の活躍

 伊東甲子太郎(かしたろう)は天保6年(1835)、本堂家の家臣、鈴木忠明(専右門衛門)の長男として生まれた(本名武明)。少年時代を水戸藩士金子健四郎の道場で武道を修め、水戸学に研鑽している。その後江戸の北辰一刀流の伊東精一の門下に弟三樹三郎と共に寄食する。師の没後、その遺志により師の娘を妻とし伊東家を継いだ。元治元年(1964)に新選組に入り、干支「甲子(きのえね)にちなんで甲子太郎(かしたろう)と改名する。新選組では弁舌が巧みで参謀として重要な地位を占めたが、土方歳三らと意見が対立し、慶応3年(1867)に弟三樹三郎らと共に、前年没した孝明天皇の陵墓を警備する「禁裡御稜衛士」となり新選組を離れた。伊東は朝廷に四通の建白書を提出し、公家中心の新政府を提案した。しかし、考えは開国、国民参加の挙国一致を唱え、倒幕思想の坂本竜馬などとも近い考え方であった。しかし、近藤勇は慶応3年11月18日に自分の妾宅に伊東を呼び出し酔わせ、帰宅の途中に新選組の隊員数名で暗殺させた(油小路事件)。死後、従五位を贈られ、昭和7年に靖国神社へ合祀された。墓は京都の戒光寺(御陵衛士4名が祀られている)にある。

 

鈴木三樹三郎と赤報隊

 鈴木三樹三郎は伊東甲子太郎(かしたろう)の実弟として天保8年(1837)志筑藩家臣鈴木専右衛門の次男として生まれた。幼名は不明であるが長じて多門と名乗った。父が本堂家の家老横手惣蔵と対立し、閉門・蟄居を申し付けられる。その後父は閉門中に脱藩し、出家してしまい、お家断絶となるところだったが、甲子太郎が家督相続を許される。しかし家族は志筑を離れ祖母の実家の小桜村の桜井家に身を寄せた。後に高野山より父が戻り、高浜村大橋に村塾(漢籍を教える)を開き、ここで多門は学問と剣術に励んでいたようである(兄甲子太郎は水戸に遊学)。父の死後、塾を継ぎ漢籍を教えていたが、評判はあまりよくなかったようで、塾は閉鎖となった。その後志筑藩の藩士寺内増右衛門の養子に迎えられ、寺内多門となり、志筑藩に勤務したが、酒好きがたたり、寺内家を離縁されてしまう。名前を三木荒次郎と改名し、江戸や仙台などを渡り歩いた後、文久元年(1861に)兄甲子太郎の訪ね、兄の道場に加わった。その後天狗党事件で一時志筑に戻るが、兄と共に新選組へ加わり京都へ行く。慶応元年(1865)夏に、新選組九番隊の組長となった。その後慶応3年に兄甲子太郎と共に新選組より別れ、御陵衛士となった。名前は三樹三郎と称していた。兄甲子太郎が新選組に暗殺された時、その遺体を引き取りに行った三樹ら御陵衛士らは、そこに待ち伏せしていた新選組に襲われ、三樹は薩摩藩邸に保護されて助かります。その後鳥羽伏見の戦いに薩摩藩一番隊として参戦し新選組を破ることになります。その後赤報隊の結成に加わり、相良総三が一番隊隊長、三樹が二番隊隊長、油川錬三郎が三番隊隊長となり、新政府の意向で年貢半減を宣伝して京より江戸方面へ進軍し、民衆の支持を集めていったが、新政府は方針転換し、帰還命令を出す。これに従わなかった相良総三ら一番隊は偽官軍とみなされ諏訪で処刑されてしまう。三樹三郎らも囚われ一時入獄したが、その後軍曹を命じられ、廃藩置県後名前を「忠良」と改名し、明治12年に秋田県鶴岡警察署長となり、司法・警察の仕事を続け、明治18年に退職し郷里近くの石岡市で余生を過ごします。大正8年82歳で死去。墓は石岡の東耀寺にひっそりとあります。