▼善光寺楼門茨城県石岡市太田字堂山948 

歴史の里石岡ロマン紀行


善光寺楼門は、室町時代中期の建造と見られ、県内最古の木造建造物といわれています。立派な茅葺屋根を持っています。寺は無住職となり、現在はこの楼門だけが残っており、裏手は子供たちの遊び場となっていました。なにか無造作に置かれている立派な門の保存を考える必要がありそうです。山門をくぐり奥の広場を抜けると大きな五輪塔が並んでいます。これは当時の小田一族の墓と見られています。その先の急な石段を登った先には本堂がありますが、痛みがひどく屋根は一部崩落し、今にも崩れそうです。大変立派な建物だったと思われることからも修復が望まれます。旧暦の6月14日には夜を徹して行われる「太田の万灯」の祭りが行われます。

 

山門の左右には仁王様(阿形像、吽形像)

国指定重要文化財

善光寺楼門(ぜんこうじろうもん)

 小田城主代2代。小田左衛門尉成治公の母堂は小田家の菩提寺である山之荘村小野の「新善光寺」を深く信仰され、出家の身となり、「雪主比丘尼」と号した。成治公は、母堂の願いから善光寺再興を図り、新治郡井白郷館荘太田月光山麓を安隠の地と選び,文亀元年(1501)「月光山無量寿院善光寺」を建立し,新善光寺を此処に移した。 
 元禄14年(1701)11月,善光寺は現在地の堂山に移されたが,当時を偲ぶ建造物は楼門のみとなってしまった。 
 楼門とは2階造りの門を意味するが,当楼門は2階部分を造りながらも,何らかの原因により完成を断念した「三間一戸楼門」の形態でる。戦国時代の世相の反映と思われるが,室町後期の建築細部様式を持ち,地方的特色を表わした建造物である。 
 2階は,緑と内部が一連となる厚板を切目状に並べ,この上に土居を置き円柱を立てている。側柱は上部粽付とし,台輪をまわし手先肘木の組物を乗せながら,その上部は未完成であるが,「楼門」の名称で重要文化財の指定を受けた。 
 平成5年度から7年度にかけて,楼門の解体修理が施工されたが,建築に関する記録は一切発見されなかった。

石岡市教育委員会