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▼茨城(常陸国)まつわる源氏の一族-甲斐武田氏


茨城(常陸国)は奥州の守り処?

 私が仕事の関係で東京より茨城県に移り住んで今年でちょうど30年になります。食べ物は海の幸に野菜・果物と大変豊富で満足しておりますが、電車マナーや車の運転マナーに言葉が乱暴に聞こえたりし、なかなか飛び込むことができませんでした。東京の標準語からすると「・・・ダッペ」と早口で一本調子に発音されると青森の田舎で昔、おばさんのしゃべっている言葉がぜんぜん分からずに苦労したことが思い出され、茨城は関東ではなく東北だなどと都会の人にいわれる所以でしょう。それが、昨年土浦の隣の千代田町(現かすみがうら市)より一つ水戸寄りの石岡市に引っ越したのがきっかけで、茨城の歴史にも興味を覚えるようになったのです。地元の方もあまりご存じないのではないかと思われます。

 石岡は筑波山の麓に近く、霞ヶ浦もあり、大変肥えた土地です。昔の人がここを拠点に発展したのも頷けます。ここ石岡は平安ロマンの香りのする街ですが、商業の発展で土浦、水戸に大きく水をあけられ、大火の影響もあり、目抜き通りも寂しい感じとなっているのは残念です。石岡に降り立つと「歴史の街」の看板が目立ちます。大化の改新で常陸の国の国府となり、聖武天皇により741年、国分寺・国分尼寺が建設された地であります。源平合戦をもとに、日の丸の起源の話を進めてきたのですから、平安ロマンの話は別の機会に譲って、ここではもう少し後の時代から歴史を紐解いてみたいと思います。

甲斐源氏武田氏の発祥の地は常陸国?

 甲斐源氏武田氏


義光―+義業――昌義 →常陸源氏佐竹氏

+義清――清光―+光長 →甲斐源氏武田氏

+信義―+忠頼
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+遠光 +兼信

+有義 

+信光●


義光の孫の清光は叔父の佐竹義業を背景に周辺に勢力を張り、鹿島神社などの神領まで犯し、遂に常陸国司から中央に訴えられ、父義清と共に甲斐国へ配流されました。その地が市河荘(市川大門町)というから、甲府盆地から山間部に入ったところで、案外配流されたのが真相かもしれません。

やがて義清・清光親子は釜無川沿岸の岳田の地を卜して移り、そこを拠点にして、甲斐の各地に一族を扶植していきました。後年、武田氏の本拠になる石和の地は、清光の孫の末弟石和五郎信光が住んだ地であり、甲府盆地の西端に位地し、古代には近くに国府や国分寺があった土地ですが、元来武田氏の本拠にした盆地中央からは離れています。この地が武田氏の本拠になるまで、源平合戦の最中で、数々の屈辱の歴史がありました。

以仁王の令旨が甲斐国へもたらされたとき、甲斐源氏の棟梁は信光の長兄忠頼の父信義でありました。甲斐源氏は令旨を受けても、頼朝のごとく平氏全盛下に逼塞していたわけではないため、直ぐに動きませんでした。その間、石橋山の合戦に敗れた頼朝は箱根山中をさまよい、信濃では木曾義仲が挙兵していました。

甲斐源氏が反平家の旗色を鮮明にしたのは、北富士山麓で甲斐源氏の一族が平氏方の軍勢と、出会い頭に不時の遭遇戦を演じてしまったことによります。仕方なくという形で甲斐源氏一族は挙兵し、北方へ出撃、平氏与党を攻めて、たちまち信濃半国を伐り取って帰国しました。

頼朝の陰謀による相次ぐ甲斐源氏惨劇の経過を、石和信光はつぶさに見てきました。武田一族の勢力失墜の歴史は、武田の末弟信光が甲斐源氏の棟梁にのし上がる歴史でもありました。鎌倉の将軍六代に仕えた信光は、武田氏の本拠へ乗り込むこともなく石和に居座り、八十六歳まで長生きしました。

これから約三百年後、信光から数えて十六代目に、同じ石和から戦国時代の武田晴信入道信玄が出たのです。