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▼茨城(常陸国)にまつわる源氏の一族-秋田佐竹氏


秋田400年の歴史をもつ佐竹氏の祖は常陸国。

 茨城県日立太田市に「佐竹神社」があります。武田家は清和天皇に始まる清和源氏の血を引く源氏の家系であることは前にも書きました。しかし武田の姓をなのることとなる真の祖は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)から考えなければなりません。何故かと言うと、頼信の3人の子供がそれぞれ活躍し、その後の社会の重要なポジションにつくことになるからであり、朝廷から分かれて武家社会を形作っていくことになるからです。頼信の長男は八幡太郎義家であり、後の鎌倉幕府を築いた源の頼朝の祖となります。一方三男の新羅三郎義光は朝廷の意向にそむいて奥州で苦戦していた長兄の義家を援護するために京より駆けつけます。これが前九年・後三年の奥州十二年合戦であり、東国源氏を武門の家として確立させたのです。

 戦後、朝廷は太郎義家と三郎義光の仲をさき、勢力の分散をはかるため、義家には何も与えず、三郎義光を常陸介(ひたちのすけ)の受領職につけます。これが茨城(常陸国)と武田家の関係の始まりです。 またこの新羅三郎義光の子孫が甲斐国に渡ることになるきっかけは、いくつかあるようです。

 今の茨城県ひたちなか市に武田郷(勝田駅の南側)といわれる土地があります。義光が常陸時代に過ごした場所であり、このため武田の氏はこの武田郷に由来するともいわれています。また甲斐へ渡ったのは、義光が甲斐守として赴任した結果甲斐の武田郷から始まったとする説もあります。甲斐へ渡った時、次男義清を伴い、また任期切れで帰京するとき、甲斐武田に築いた城を義清に与えています。また、甲斐に土着したのは義清の子の清光からだとする説もあります。

茨城(常陸)と山梨・秋田は親戚

 甲斐(山梨)の武田家の発祥の地は茨城であることは確かなことであると思いますので、茨城と山梨は親戚関係にあるのでしょうか?

さて茨城(常陸)の国を統一したのは佐竹義宣であります。常陸国府「石岡」は大掾氏が長く支配しておりましたが1590年に府中城を攻められ陥落しました。この佐竹家の家紋は前に述べた通り、扇に月丸であります。この佐竹家は秋田へ移り、秋田400年の歴史が始まりました。では何故秋田へ移ったのでしょうか?

 前にも述べましたが、佐竹氏は、豊臣秀吉の小田原北条氏攻略に参陣し、その時の功績から、秀吉より常州の旗頭になるよう命ぜられ、水戸城を攻略し太田城(日立太田市)より水戸城へ移り、1591年に常陸国(茨城県)を統一した豪族です。ところが、関が原の戦いでは石田三成に加勢し、家康より54万5千石から20万5千石に減封となり、秋田へ国替えを命じられてしまいます。1602年のことですから今から約400年前のことでした。この佐竹家は秋田で久保田城を完成させ、それから明治維新まで秋田を治めることとなります。

何故秋田に美人が多いのか

 さて話は余談になりますが、何故秋田に美人が多いのかについて茨城で語り継がれているお話があります。それは、佐竹家が秋田へ国替えを命じられた時に、美人を皆一緒に連れて行ってしまったからというのです。このため秋田には美人が多く、茨城は美人がいなくなってしまったのだとか。それから400年経ちますので今では真偽の程は分かりません。皆様のご想像にお任せします。私は茨城にも秋田にも美人はたくさんいると思っております。でも私の知っている秋田出身の奥さんは美人ですよ。

茨城から秋田に移った物?

 常陸太田市に伝わるお話を見つけましたので紹介しましょう。それは秋田名物の「ハタハタ」という魚です。この魚はもともとは茨城の大洗沖の海でも沢山獲れたようですが、佐竹義宣が常陸から秋田に転封された時に「ハタハタ」も佐竹義宣を追って秋田に行ってしまい,常陸では獲れなくなったといいます。また常陸の多賀郡で採れた良質の金銀が義宣がいなくなってからは,石灰岩に変わってしまったとも伝えられているようです。このお話の意図するところは何でしょうか? 佐竹氏に去られ、残された常陸の民衆が昔の栄華を惜しんでいるのでしょうか。しかし常陸太田市にはその後水戸黄門で有名な光圀公の別荘である西山荘(せいざんそう)がありますから、町としてはある程度の発展があったはずです。何か佐竹義宣(よしのり)について少し調べてみたくなりました。