歴史の里石岡に関係した人物伝       <石岡ロマン紀行>

 

 

 

 都々一扇歌
(どどいつせんか)

 

 

江戸末期に一世を風靡した「都々逸」を生んだ祖として知られる。お上を風刺したため江戸追放となり、最後は姉の嫁ぎ先であった府中(石岡)で亡くなった。国分寺の境内に墓がある。(1852年没)

 

 

 伊東甲子太郎・
鈴木三樹三郎
(いとう かしたろう・
すずき みきさぶろう)

 

石岡のすぐ隣、志筑(しずく)藩の出身であるこの兄弟は共に幕末の時代を必死に生きた。兄甲子太郎は新選組の参謀として名をはせたが、組と意見が対立し、組を離脱後暗殺される。弟三樹三郎も兄に従い新選組九番隊長となる。その後兄と共に組を離脱し、御陵衛士を経て赤報隊二番隊長となった。罪を着せられて投獄されたが、明治以降に鶴岡警察署長を経て余生を石岡で過ごす。市内の東耀寺に墓がある。(大正8年(1919年)没)

 

 

 

 親鸞 (しんらん)

 

浄土真宗の開祖、師法然と共に京より、法然は土佐へ、親鸞は越後に流罪となり、5年後に罪を赦され、法然は京に戻ったが、親鸞は常陸の稲田(現笠間市)の草庵で経典「教行信証」をまとめる。また関東全般に布教活動を行う。また鹿島神宮や無量寺へ石岡の町を何度も通ったという。山伏弁円が一度は親鸞に恨みを持ったが、その後親鸞の門弟となった遺跡大覚寺がある。二十四輩の四番如来寺もある。(1262年没)

 

 

 太田三楽
(おおたさんらく)

 

太田資正(すけまさ)。三楽斎と号す。江戸築城で知られる太田道灌の曾孫。戦国時代岩槻城主として北条氏康と争う。嫡男に城を奪われ、佐竹氏に請われて石岡府中城の隣り片野城主となる。小田天庵を破ったことで知られる。初めて忍者犬(軍用犬)を使ったことでも知られる。豊臣秀吉にこの男が1国も取れないのは不思議であると言わせた。1590年病死。墓は片野城址近くの山中にある。

 

 

 熊岡美彦
(くまおかよしひこ)

 

明治22年石岡市の熊岡製糸の息子として生まれる。大正2年(1913)の第7回文展に初入選して以来,第1回帝展で特選,第6回帝展で帝国美術院賞を受賞するなど日本画壇で活躍する一方,熊岡絵画研究所(後の熊岡絵画道場)を設立して後進の育成に尽力した。また,昭和7年(1932)には「東光会」を結成し,近代日本西洋画の発展に大いに貢献した。昭和19年没。東京都多磨霊園に墓がある。作品は茨城近代美術館、東京国立近代美術館、笠間日動美術館などにある。